精神医学の歴史 (精神障害者施設の側面より)

 精神医学の歴史を"施設"というものの変遷を中心に振り返ってみたいと思います。"精神医学の歴史(青土社)"を参考に精神医学の歴史を振り返る事により、現在やらなければならない事、今後すすめていかなければならない事をみていきたいと思っています。 


 18世紀以前には精神医学は存在していなかった。18世紀以前の建物としては以下のようなものがある。
 1656年フランスのビセートル、サルペトリエール。時代はルイ14世の時代、精神障害者、高齢痴呆患者、乞食、脳器質性疾患患者のため「総合施療院」としてできた施設。ビセートルは男性用、サルペトリエールは女性用。1713年イギリスのベテル。1729年アメリカのボストン私立救貧院。時代は西部開拓史の最中、当時植民地であったアメリカは精神障害者がいると家族全員で対応しながら世話をしていたが、この施設ははじめて一般居住者から隔離するという形で精神障害者を1ヶ所に集めた。

 治療的施設は、1751年イギリス、ロンドンの聖ルカ病院。ここでは患者を管理する事が薬物療法より効果あるという認識のもとに患者を治療のために集めた。そして精神障害は治る病であると認識していた。
 1793年フランス、ピネル医師によるビセートル慈善施設。時代はフランス革命。貧しい出身のピネルが精神障害者の人権復活を目指して動き出した。

 1795年そのピネルがフランス、サルペトリエールの管理者になり興奮する患者が拘束されていた鎖を廃止、興奮して暴れる患者には拘束衣という体を傷つけない方法で鎮静化を図った。また病院として治療を行い温浴療法等で症状を鎮めることを模索し始めた。1801年にピネルが記した本には「希望のないように見える人達の社会復帰の希望が見えてきた。 病状により隔離が必要な場合もあるが、理性の能力を発展させる指導が必要な場合もある」と社会復帰への情熱を示していた。この教科書により、ピネルは近代精神医学の祖と言われている。ピネルの弟子エスキロールが「外の世界から隔離された施設の中にいる事は有益な効果を生じ、家族や友人から離れている事が患者の生活を支配していた以前の不健康な感情から患者を解放することに大きく寄与する」と感じていた。その後施設(当時はアサイラムと呼ばれていた)は欧州中に広まり治療的アサイラムの組織化がなされた。

 「精神科の患者が、騒ぎや騒音を離れて楽しめる静寂と、職場や家庭の問題から離れて得られる心の安らぎは、彼らの回復に非常に役立つものである。規則正しい生活、訓練、よく練られた規律に従う事により、自分たちの生活に変化を反映させるようになる。適応し、他人と上手くやっていき、悩んでいる他の患者と一緒に暮らすことの必要性は、彼らが失っていた理性の回復を成し遂げるための強力な味方である」

 例えば、中央ヨーロッパのアサイラムでは午前5時起き、すみやかに洗濯、朝食を済ませ、6時からの1時間"患者の理解できる箇所の聖書"を読む宗教的啓発。日中は、木を切ったり、軍事教練をしたり絵画のクラス、地理学のレッスンをして、夕方7時から"わずかばかりの賞品付の玉転がしゲーム"を行うという生活。

 このアサイラムは、ヨーッロッパを中心に爆発的に世界に広がった。アサイラムの組織化が進む中で新たに生じた治療法がある、それは精神分裂病患者の精神症状を会話で治療をするという精神療法の誕生。"拒食で慢性期の分裂病患者の前で、妄想に同調して飛び上がったり、同じ言葉で返したり、ダンスを見せて患者を微笑ませて食べられるようになった"事があり、それ以来特に有効な治療法を見出せない精神科医らが精神療法に没頭した。

 しかし、このアサイラムの隆盛は第1次大戦頃より善意が悪い結果に終わってしまった。アサイラムが「慢性の患者と痴呆患者のだだっ広い倉庫」になってしまった。

 例えばアメリカのある施設の年間新入院者数が1820年には31人で総入院患者が54人であった施設が、1870年には年間新入院患者が182人になり総入院患者が473人になった。このように各地で治療を求める患者が殺到し受け皿がパンクしてしまった。医師の数も足りなく、治療が雑になり、放置される患者が多くなった。
 ある者は、19世紀から患者が増え続けた事に圧倒されアサイラムが衰えたと論じている。他の者は、アサイラムに入院させられた患者の多くは精神病でなく性格的に社会に適応できない者や浮浪者であったため治療効果が少なく結果として永住の地として集まりすぎてしまったと主張している。1900年には入院を希望して殺到する患者たちの洪水でアサイラムは砕かれてしまった。医師たちも患者数の増加に圧迫された。

 アサイラムへの入院数の増加の1つは精神病に家族が何とか耐える力の低下に関係していた。かつて家族の中で扱われた精神疾患が当時徐々にアサイラムに全てを委ねるようになっていったことが一因と考えられる。
もう1つには純然と精神疾患とみなされる患者の増加が考えられる。当時流行していて治療法のなかった梅毒による精神疾患の増加、そして精神疾患の診断学の進歩による患者数の増加。1893年にドイツのクレペリンが「早発性痴呆とそううつ病」。弟子のブロイラーが1908年「精神分裂病」の疾患概念を提唱。これらにより、それまで少し変わった人とのみみなされてきた人までも集まってきた可能性がある。

 現在のデイケアも、アサイラムと同じ轍を踏まないように注意が必要である。治療対象はどのような人なのか、どのように治療を進めていくのかを常に治療者が考えていかなければならないと思う。
家族の協力なくして社会復帰はありえないのであろう。

 ブロイラーが1908年「精神分裂病」の疾患概念を提唱してそこからはじめて治療法が確立されてきました。一方、精神分裂病でない精神的な病、具体的にはそううつ病とか神経症(ノイローゼ)は明らかに精神分裂病と異なるという事もわかってきた。

 しかし、「神経」による疾患というイメージは精神の病というイメージより良く、精神の病という名前を嫌う患者さんが、本来末梢神経の解剖の専門家を意味する「神経科医」や薬物療法をほとんど行わない精神療法家を受診するようになった。神経科医は内科学と病理組織の病理学を勉強した医師であり、脳の病気である患者を収容していたアサイラムに勤めている精神科医とは異なっていた。このように神経科医が否応なしに精神神経症の世界に巻き込まれるようになったのは、患者が「精神科的」なものを全て怖がって否定したからであった。

 当時治療を受けられるのは中産階級の比較的豊かな人のみで、医師の方もアサイラムで勤めるよりも高額の医療費を得られる私立クリニックを開業し、精神療法主体で一人一人の患者さんを主に会話で治療しようとした。当初は神経症(ノイローゼ)のみを対象にしていてそれなりの成果も得てきたが、精神分裂病、そううつ病、人格障害の人達が神経科医にかかるようになり、症状が良くならないという結果になった。

 当時の著名な神経科医には、フロイト、ジャネ、シャルコーがいた。そこで、神経科医を名乗る人たちは治療法の変更を余儀なくされた。水治療法、温熱療法、松葉浴、その他の入浴法、電気刺激療法、マッサージ、理学療法などいろいろ取り入れられた。つまり末梢神経を刺激する事により中枢神経系(脳)による症状をも治療しようとした。ここで、精神療法(主に会話での治療法)が導入された経過をたどってみる。2つの経路を通り医学に入ってきたがいずれも格別精神科的なものではなかった。

 まず催眠療法家が患者の症状を暗示で消す事ができると信じ込ませる事、もう1つは先程示した私立の「神経病」クリニックにおいて心理学的環境療法。
まず催眠療法は被催眠性がヒステリーの証拠であると確定する時にのみ使われると1871年にシャルコーが解釈し、内科医であったベルネームは催眠を医学的治療法に使えると信じて行ってきてそれなりの効果を得た。しかし、彼はすぐに催眠術を用いない、つまりよく話して聞かせる暗示が同じように効果的だと気付き、そこから近代医学の精神療法が始まった。こうして催眠療法は1880年代に消失した。

 一方クリニックにおける治療法として、薬物療法も無く入院施設も無い施設で精神療法が人気を博した。

 1903年から1933年の間に、アメリカの精神科施設に閉じ込められていた患者は14万3千人から36万6千人へと2倍以上になった。しかも精神病院が大きくなるにつれその治療的能力は低下していった。アサイラムは次第に精神病院と言われるようになってきたものの病院とは名ばかりの収容施設と戻ってしまった。

 薬物療法の開発は偶然が引き起こしたもの。1883年オーストリア生まれの医師ワグナーはレジデントとして勤務していた病院で、ストレプトコッカス感染の女性の精神病患者が寛解したことに気付いた。1890年ドイツのコッホが結核に効果があると思われるワクチンのツベルクリンを開発。ワグナーは患者に結核性の熱発を生じさせる目的で、神経梅毒の精神病患者にツベルクリンを注射。1909年までに彼は、神経梅毒の症状の長期にわたる寛解を規則正しく得る事が出来た。1917年5月マラリアに罹患した兵士の血液の一部を神経梅毒の患者たちに注射した。3週間後に患者は最初の発熱発作を起こし、9回の発作の後マラリアの治療薬であるキニーネを投与。1917年12月患者は改善して退院した。1927年ワグナーはノーベル賞を授与された。
 その後、阿片、モルヒネ、幻覚剤、覚醒剤、睡眠薬、麻酔薬等が治療に用いられたが一時的効果のみで副作用のため症状が悪化する事が多く中止となった。持続睡眠療法として数日間眠らせる方法が一時採用された事がある。しかし、誤嚥による死亡や耐性の問題のため治療法としては消失した。
1923年にはインシュリンによって昏睡状態を起した患者の精神症状が改善する事に気づいた。精神分裂病の興奮状態やうつ病のうつ症状の改善を確認した。
 1934年にはメトラゾールという薬物により意図的に患者に痙攣を起させることにより分裂病の症状の改善が得られた。これはインシュリンによる発作と異なり昏睡のない痙攣のみの方法。カンフルという薬物も頻回に使われたが、確実に発作を起こすとは限らない事、嘔吐、注射部位の筋肉痛の問題があった。

 1938年イタリアのチェルレッティにより電気けいれん療法が行われた。精神分裂病で、幻覚妄想、被害妄想、暴力的患者は短期間で改善し1ヶ月で退院した。患者自身は即座に無意識にされ恐怖もなくけいれん後に身体的な変調もなかった。1940年アメリカ、コロンビア大学で電気ショック療法始められ大きな成果を得た。しかし、ECT(電気ショック療法)はアメリカで勝利の行進を続けたわけではなかった。多くの精神分析医がECTの有用性を認めていたがサリヴァンらは「異常な才能に恵まれ、したがって、社会的に意義深い人々」が自然回復を経験するかもしれないという希望があるので精神分裂病患者は治療せずサポートしていくのが良いと考え、ECTの無差別かつ見境のない使用に対し苛立っていた。精神分析の文献を通じてECTの有効性が脳の生物学に基づくよりは、むしろある種の精神力動によるに違いないと言う主張に結びついていた。その理由は、もし脳のニューロン自体が人々を病気にするなら、精神分析の学説的な構造は消え去ってしまうであろうから。このようなわけでECTは精神分析をジレンマに追い込んだ。この頃精神科医になったレジデント達は、"大いに儲かるコミュニティでの開業につながる精神療法家になる訓練を受ける"か、"ECTを使用できる稼ぎの少ない精神病院の医者になる事を選ぶか"選択に困った。

 半世紀の間、精神医学の学説は、監禁主義的ケアと個人的な精神分析の選択の間の罠に捕らわれていた。一方では、神経生物学的パラダイムと心因論的パラダイムのいずれかの選択を避けてきていた。
 1970年になり生物学的精神医学が、それまで支配的であった精神分析のパラダイムを追い払い、精神医学を医学の分野に立ち戻らせるようになってきた。生物学的パラダイムにも精神療法の余地はあるが、それは医師―患者関係に当然認められる形式ばらない精神療法であり、精神分析が台本を書いた無意識の葛藤を徹底操作する洗練された技法とは異なっている。主要な精神疾患が脳自体の物質そのものの中にあり、母親の誤った養育方や不幸な社会環境にないことを立証した。
1951年外科的麻酔薬としてフランスのローヌ・プーラン社がクロールプロマジン開発。外科医ラボリが精神的に落ち着く作用がある事に気付き論文に掲載。1952年パリの精神科医でサンタンヌ精神病院のジャン・ドレーとピエール・ドニカーが8人の精神分裂病患者に投与し効果を証明。ここに現在の精神科薬物療法の原点がある。クロールプロマジンは一般医学におけるペニシリンの導入にも比べられるような、精神医学の革命であった。1957年になり分裂病のドーパミン仮説、うつ病のセロトニン仮説やアミン仮説が出現。しかし、1995年頃よりドーパミンとセロトニンは複雑な精神障害に関する多くの伝達物質のわずか2つに過ぎず、おそらく主要な役割を演じていないことが明らかになった。一つ一つの神経伝達物質の異常ではなく、それらの横の繋がりに異常がみられるのであろう。
 一方、躁病に用いられる薬も偶然発見された。躁病にはほとんど唯一の治療薬と言っても過言ではないリチウムが用いられる。1949年にオーストラリアの37歳の精神科医ケイドは躁病の原因も患者の身体自体によって作られる何らかの有害物質によるものと思い、患者の尿を取りモルモットに注射して調べていたがモルモットは死ぬのみであった。その時、尿の成分である尿酸を溶かす試薬であるリチウムをケイドは出来心でモルモットに注射した。するとモルモットはいつもの狂ったような反射の変わりに横たわり落ち着いた。彼は自分自身にリチウムを注射して害の有無を調べた(彼は3年間日本軍の戦時捕虜収容所に入れられていたので、むしろ不快さには高い耐性を持っていたであろう)。その後躁病患者10人で改善を認め論文で発表した。1970年よりアメリカFDAが許可。
うつ病の薬は、スイスのガイギー社がクロールプロマジンに次ぐ薬を開発中にできたもので、その試薬により慢性の分裂病 患者が興奮状態になったことを受け、1955年ガイギー社の社員である精神科医のクーンがうつ病患者に投与し効果を得た。これがイミプラミン(トフラニール)で三環系抗うつ剤の最初のもの。その後、1987年アメリカのイーライ・リリー社がフルオキセチン(プロザック)を開発、1994年までにザンタックと呼ばれる胃潰瘍の薬についで世界で2番目に多く売れている薬となった。

1939年イギリスのビエラが集団精神療法を始めた。

 「精神分析は患者を分析家に依存させるので、彼らの問題解決を遷延させてしまうと考えた。対照的に集団精神療法は、患者を「独立的、積極的、かつ自己決定的」にさせるが、それと同時に内省と治癒への活動実践を助ける。これらの集団療法はどのように始まったのか? 1939年12月神経症と精神病の患者35人がランウェル病院の"サニーサイド・ハウス"に集まり社交クラブを作った。一人の患者が座長になった。患者自身が運営し病院のスタッフによる上意下達式ではなかった。クラブにはスタッフの一人が出ていることが多かったがしかしクラブは完全に自主的であった。しかし、治療的コミュニティには住まいが必要であった。

 1942年イギリスのリーズらが「社会精神医学」という用語を使い始めた。ここで強調されたのが、患者自身が力をつけること、生活が健全になる事、好ましいコミュニティ関係によって悪い人間関係の結果生じたものを改善する事であった。したがって病院は、治療的コミュニティの核である集団精神療法にとって完全な場所ではなかった。ここで、外来患者部門である精神科的ディ・ホスピタルの概念が生まれ、患者はグループセッション、カウンセリング、作業療法をはじめ、治療への包括的なアプローチとなるその他のサービスを求め集まってきた。1946年最初のデイ・ホスピタルはカナダ・モントリオールでキャメロンらが創設。

 デイ・ホスピタルは、入院に比べて人間的で費用のかからない代わりの方法として直ちに人気を博した。1951年から次々と創設され1959年までにイギリス内で38ヶ所できた。この運動は「治療には患者の社会的環境全体と彼の社会関係全体が含まれねばならない。患者は個人としてだけでなく、コミュニティの一員としても治療されなければならない」というビエラの哲学を具現していた。社会精神医学という言葉は、精神分析が主流であったアメリカにも1950年代に導入された。しかし、アメリカの「コミュニティ精神医学」は悲劇に終わった。つまり生活能力に欠ける病院の患者が大量に退院させられたことは、街頭での手荒な扱いに見舞われる結果になった。

 イギリスやその他大陸で提供されたデイケアとは全くと言って良いほど似ていないものがアメリカで用いられた。1963年のケネディ大統領による精神衛生法の施行は、治療の主体が精神病患者のコミュニティケアからもっぱら中流階級の神経症患者に対する精神療法に変わってしまった。アメリカの共産主義排他の思想とも関連があったかもしれない。合衆国では、入院患者数が1955年55万人から1970年には33万人さらには1988年には10万人に低下し30年間で80%以上減少した。薬物療法により脱施設化が進み、入院せずに治療を受けることができるようになった。1963年J.F・ケネディの立法により大量にコミュニティ精神衛生センター(CMHC)が誕生し、これらが退院した患者らの在宅治療の受け皿となると期待された。しかし、CMHCはすぐに大きな問題なく暮らしている人達のための精神療法セッションの場になってしまい、脱施設化の最初の10年に精神病院のドアから放り出された症状のある患者を、受け入れるための管理的な準備はまったくなされていなかった。CMHCはイギリスや大陸で提供されているデイケアとは全くと言って良いほど似ていなかった。したがって脱施設化は、合衆国での「州の恥」となり、ホームレスの3分の1がまともな生活を送れず、庇護や仕事を見出せない精神病者であった。その他の退院患者は犯罪司法体系の管轄下に移行し、ある研究では、郡の監獄の収容者の14%が以前に精神科治療を受けていた人であった。

 アメリカの「コミュニティ精神医学」は悲劇に終わった、つまり生活能力に欠けるアサイラムの患者が大量に退院させられたことは、街頭での手荒な扱いに見舞われた。

 日本において今後10年間で140万床のベッドを50から60万床に減らすと厚生労働省は発表した。ベッド半数は精神科。6ヶ月以上の長期入院に対して患者自己負担が月数万円増えた。一方で、精神障害者社会復帰施設の拡充も進まず、既存のデイケアのトータルでの診療報酬は下がり、外来診察時の診療報酬もトータルで減少した。医療の質を維持する上でも、日本でのコミュニティ精神医学を失敗させないためにも我々が何をすべきか考えていかなければならない。